ここでは、歴史に関わる話を調べていきます。
基本的に「東大教授がおしえるやばい日本史(本郷和人)(ダイヤモンド社)」とWikipediaを参照し、そこに自分の持っている知識や思ったこと・感じたことを付け加えて書いています。
目次
邪馬台国
卑弥呼
卑弥呼は三国志と同じ時代の人
日本の歴史を学ぶ際に最初に出てくる人ですよね。
実は、この卑弥呼、西暦239年に中国の魏に使者やみつぎ物を送って、卑弥呼が日本の王だと認めてもらっています。
魏志倭人伝に載ってるという、アレです。
魏志倭人伝は知ってたけど、三国志と直結させるのは難しいですよね。
歴史って縦軸ばかりに目がいって、横軸を忘れがちですが、三国志は西暦189年~西暦280年までをいいます。
卑弥呼が使者を送った当時、魏の曹操は生きてた?
答えはノーです。
魏というのは、三国志で出てくる「魏(曹操)・呉(孫権)・蜀(劉備)」の魏のことですが、3人の没年は、
- 曹操 西暦220年没(155~220年)
- 孫権 西暦252年没(182~252年)
- 劉備 西暦223年没(161~223年)
となっています。
西暦239年ということは、曹操や劉備は亡くなっていますが、孫権は生きていました。
参照:Wikipedia、東大教授がおしえるやばい日本史(本郷和人)(ダイヤモンド社)
平安時代
安倍晴明(あべのせいめい)
安倍晴明が所属していた「陰陽寮」という部署
これは占いや悪霊退治をするための部署だそうです。
この陰陽寮、飛鳥時代(聖徳太子のいた時代)からなんと、明治時代まであったそうです。
結構最近までオカルト的な部署が公的機関として存在したことに驚きです。
漫画で警察や公安の特殊部署として、心霊現象を調査する部署とかあったりしますが、明治時代まで悪霊退治の部署があったのなら、あながち荒唐無稽な設定という訳でもなかったんですね。
安倍晴明と蘆屋道満(あしやどうまん)
映画や漫画などでは、常にライバル関係のイメージですが、実際はというと。
最初は晴明に道満が戦いを挑み、敗れたそうです。
そのあと、なんと、道満は晴明に弟子入りしたそうです。
映画や漫画では、
- 安倍晴明=正義のヒーロー、蘆屋道満=悪
のようなイメージがあるので弟子入りとは意外ですね。
でも、「道満=悪」につながった出来事が。
蘆屋道満、安倍晴明の妻を寝取る
安倍晴明のもとに弟子入りした蘆屋道満でしたが、晴明が3年という長期間、出張している間に、晴明の妻・梨花(りか)と浮気をしていたそうです。
安倍晴明は遅咲き
晴明が出世したのは40代からだそうで、かなり遅咲きだそうです。
紫式部は自分が頭がいいので他人をバカと見下してた?
これは私が勝手に思った感想です。
そう思った理由は、「東大教授がおしえるやばい日本史(本郷和人)(ダイヤモンド社)」という本の中で、
- 清少納言のことを「自慢げに漢字を書き散らしてるけどよく見たら間違いだらけ」
- 和泉式部のことを「無知の割には結構いい歌書くのよね。ま、私ほどじゃないけど」
と毒舌キャラなのですが、何かと「頭が悪いわね」というディスりをしている気がしたからです。
あ、紫式部さんは、世界最古(1001年~1010年)の長編小説「源氏物語」を書いた天才作家なので、超すごい人なのは言わずもがなです。
1000年たった今でも漫画や映画などで作品化されますし、織田信長や上杉謙信も源氏物語を愛読していたそうです。
そう考えると、世界で歴代最高の小説家といえるかもしれませんね。
藤原道長は糖尿病だった?
平安時代の権力者といえば藤原家
その絶頂期をもたらしたのが藤原道長
娘の彰子(しょうし)を一条天皇と結婚させてます。
そう考えると、今の天皇というか皇族の方たちには、歴史上の権力者の血が少なからず入ってるんだなと思いました。
本題ですが、なぜ藤原道長は糖尿病だったかというと、ごちそうを食べすぎたからだといわれています。
当時の記録にある症状などから糖尿病と推定しているんでしょうね。
鎌倉時代
源頼朝はイケメンだった
やばい日本史(本郷和人監修)によると、源頼朝はわりとイケメンだったとか。
そして意外にも、弟である源義経は、ちびで出っ歯らしい。
※頼朝も背は低かったらしい。
源義経と新選組の沖田総司は歴史上の人物でも美少年の代表のイメージですが違ったのですね。
ちなみに沖田総司の似顔絵を見ると、こちらもイケメンじゃないです。
鬼の副長の土方歳三は、写真が残っていてイケメンなのが証明されています。
源頼朝の身長は155センチだった?
2022年10月19日(水)フジテレビ放送の「世界の何だコレ!ミステリーSP【ドラマで話題!源頼朝&鎌倉の謎】によると、源頼朝の身長は155センチの可能性があるそうです。
どういうことかというと、
- 番組の中で、愛知県岡崎市にある瀧山寺(たきさんじ)を訪問し、そこにある、運慶が作ったとされる「聖観音菩薩立像(しょうかんのんぼさつりゅうぞう)」を紹介
※この仏像は国指定重要文化財 - この800年前に作られた仏像は、頼朝が亡くなった後に作られていて、頼朝を模したものと考えられている
→実際仏像の中には、頼朝の歯・髭の一部が口元に納められている - そして、寺に伝わる書物には、「彼の等身を仏の寸法として造るなり」とある
- つまり、頼朝と同じ身長で作られた可能性がある
- その仏像の身長が155センチ
というわけなのです。
源頼朝は浮気性
こちらも源頼朝の話題。
わりとイケメンだった源頼朝。北条政子からの猛烈なアプローチにより結婚します。
しかし結婚から5年、妊娠中の北条政子の目を盗み、「亀の前」という女性と浮気をしてしまいます。
妻が妊娠中での浮気。現在でもニュースになってますね。グラビアアイドルを自宅に呼び寄せて衆議院議員を辞めたとか辞めないとか。。。
この浮気は北条政子にバレて、亀の前の家はぶっつぶされたそうです。
北条政子は気性が荒いですね!
この浮気癖、これで治ったわけではなく、また同じことを繰り返します。
3代将軍・源実朝を政子が妊娠中に、頼朝は別の女性と浮気して政子を怒らせたそうです。
女癖が治らないのは、今も昔も変わりませんね。
日本初の幕府を開いた源頼朝ですが、征夷大将軍になってから7年後の1199年、橋の落成式にて落馬して53才でなくなっています。
ちなみに弟の源義経は、源頼朝に追い詰められ、1189年に31才で自害しています。
室町時代
足利尊氏
源頼朝と同じ源氏の子孫だそうです。
この足利尊氏が鎌倉幕府を倒すのですが、源氏の鎌倉幕府は3代で滅び、そこから北条氏が実権を握っていたので、源氏同士の戦いというわけではなかったようです。
コロコロと気が変わるタイプで奔放だったようです。
そのため、実務は苦手で弟の直義(ただよし)に頼っていたようです。
豊臣秀吉も影で実務を優秀にこなす弟(豊臣秀長)がいましたよね。
縁の下の力持ち的な弟がいるのは天下取りに重要な要素といえます。
戦国時代
フランシスコ・ザビエル
勘違いから布教活動成功?
ザビエルの通訳(薩摩出身のアンジロウという人物)がザビエルのことを
- インドから来たお坊さんです
と紹介したことで勘違いが起きたそうです。
インドといえば仏教発祥の地ですし、そこから来たお坊さんと言われれば日本人ならもろ手を挙げて歓迎しますよね。
実際、ザビエルはインドでキリスト教を布教していました。
そして、通訳も「(日本人にわかりやすく言うと)お坊さん」という意味だったんでしょうね。
当時は今ほど交流が盛んではないので外国語を訳すのも大変でしょうし、辞書もないはずです。
そもそも外国の文化を日本人が知らないのでそれを説明するとなると、さらに難しかったでしょう。
勘違いが解けたのは恋バナから
そもそもザビエルは、お坊さんでもないし仏教でもない、と気づいたのは意外なことに恋愛事情の話からだそうです。
当時のお坊さんは女性との恋愛は禁止でしたが、男性同士はOKでした。
その話をザビエルにすると、同性愛はダメと怒ったそうです。
キリスト教では同性愛はダメみたいですね。
そこで初めて、仏教じゃないと気付いたそうです。
女性との恋愛禁止とか、男性同士はOKだなんて、現代のアイドルとかBLに通ずるものがありますね。
武田信玄
イケメン好きだった信玄
この時代では武将による男性同士の恋愛は、ごくありふれた風景でした。
織田信長と森蘭丸なんて、有名ですよね。
※Wikipediaでは、「一説では、信長から寵愛を受け、衆道としての関係があったともいわれている」となっています
話を戻して、信玄についてはラブレターが現存しています。
内容はというと、権力者なので上から強引にいくと思いきや、「確かに他の男にアタックしたけど、ふられたから何もないよ」みたいな感じで釈明に追われています。
相手は年下で部下なのに、信玄を拒否できたみたいで、意外とその辺は自由だったんですね。
また、武家社会での男色(なんしょく)は、出世の手段としての役割もあったようです。
今でいうところの枕営業ですかね。
上杉謙信
「甲斐の虎・武田信玄」の次は、「越後の龍・上杉謙信」です。
お坊さんみたいな服装には理由があった
甲冑を着てるより、白い頭巾を被って僧侶みたいな服装をしてるイメージですよね。
実は子供の頃はお坊さんとして育てられていたそうです。
ただ、跡継ぎだった兄が才能がなく、反乱が起こったため、14歳の謙信が武将として反乱を鎮め家督を継いだそうです。
生涯独身には理由があった
生涯独身を貫いた上杉謙信は、
- 実は女性だったのでは?
なんて説もあります。
ですが、子供時代をお坊さんとして育てられたと聞くと生涯独身も納得しました。
※お坊さんは女性との恋愛禁止だから。
さらに、野心がなく、領土拡大を目指さなかったのも納得です。
敵に塩を送ったのもお坊さんが影響してるのかもしれませんね。
死因は少し残念
謙信は49歳で亡くなりますが、その死因と状況がクールな謙信からすると少し残念です。
- 寒い時期のトイレで大をしていて、気張りすぎて脳の血管が破裂して急死
だそうです。
まあ、現代でもよくある状況ですよね。
藤原道長の糖尿病といい、同じ人間なので当たり前なのですが、現代と同じような病気でなくなるのですね。
織田信長
魔王の由来は?
三国志の曹操と織田信長は「魔王」と言われることがあります。
ではなぜ、信長は魔王と呼ばれるようになったのでしょうか?
これ、戦国無双というゲームの解説文にあったので知ってました。
由来は、
- 武田信玄とのやり取りで、返事に「第六天魔王 信長」と書いたから
だそうです。
第六天魔王とは、「仏道修行を妨げている悪魔」のこと。
今回新たに知ったことは、なぜこの手紙のやり取りがあったのか、です。
- 信長が延暦寺を焼き討ちにしたあと、それに対する怒りの手紙を信玄が送ったから
でした。
竹中半兵衛
秀吉の軍師として有名な武将です。
イケメンだったらしい
天才軍師と呼ばれるだけでもカッコいいですが、
- 女性のようにきれいな顔だった
と言われるほどイケメンだったそうです。
ただ、体が弱く、36歳の若さで亡くなっています。
たった16人で稲葉山城を乗っ取る
これも有名なエピソードですが、その理由についてはよく知りませんでした。
その理由は、
- 当時の主君・斎藤龍興の目を覚まさせるため
です。
というか、これは知っていました。
この奥にある理由を知ってびっくりしました。
その理由とは、
- おしっこかけられてバカにされたから、城を乗っ取って切り殺してやった
というものです。
意味不明ですよね?
順を追って説明します。
- 主君の斎藤龍興は仕事もせず遊んでばかりで、半兵衛のアドバイスは無視されていた
- それどころか、もっと遊ぶようにすすめる斎藤飛騨守という家臣を優遇していた
- その飛騨守がやぐらの上から半兵衛の顔におしっこをかけながらディスってきた
- その場は何もせず立ち去ったが、数日後に城を乗っ取り、龍興の目の前で飛騨守を切り殺した
という流れです。
切り殺すとこまではしないですが、現代でも仕事のできる社員がやりそうなことですよね。
真田幸村
真田丸の頃は白髪で歯も抜けて病気がちだった
真田幸村がデビューしたのは33才の関ヶ原の戦い(1600年)です。
真田丸は大坂・冬の陣(1614年)の話なので、40代後半です。
関ヶ原の戦いの後、幸村は父・昌幸とともに西軍で戦ったため処刑されそうになってます。
この時、兄・信幸が東軍として戦っていたので家康に嘆願し、流罪ですんでいます。
その流刑地が和歌山の高野山のふもとです。
ここで大阪・冬の陣までずっと幽閉生活を送ったのです。
40代後半で、幽閉生活が長いと、歯も抜けて病気がちなのも仕方ないのかもしれないですね。
まあ、その生活中に兄の家臣に焼酎を送ってくるようお願いしたりしてますけどね。
伊達政宗
伊達男の語源にもなった、オシャレ番長です。
ちなみに真田幸村とタメです(1567年生まれ)
※真田幸村は1570年生まれ説もあり
スペイン艦隊を呼び寄せ、幕府打倒を計画していた
江戸時代に入ってもずっと野心を持ち続けていたのは知っていましたが、外国の軍隊まで使って具体的に計画していたとは・・・
慶長遣欧使節は有名なので知ってますが、その裏に
- スペインと軍事同盟を結び大艦隊とともに帰国
なんて計画を立てていたなんて。
この計画、幕府がキリスト教禁止令(1612年)を出したので同盟は失敗に終わったそうです。
晩年は幕府寄りになった?
これは私の勝手な解釈です。
理由は、
- 1635年、家光が参勤交代制を発布し、「今後は諸大名は家臣として遇す」と発表した際
- 政宗はいち早く進み出て「命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ」と申し出たため、誰も反対できなくなった
というエピソードからです(Wikipediaより引用)。
家光は、
- 「自分は生まれた時から将軍の制度があったんだから、今までは徳川と諸大名は一応、対等の関係だったけど、俺からは違うよ」
的なエピソードを聞いたことあったんですが、この参勤交代導入時のエピソードのことかなと思いました。
伊達政宗からすると、最晩年(翌年の1636年に70歳で亡くなっている)なので、倒幕の野心より、自分の死後、伊達家が改易されるのを防ぎたかったんだと思います。
※ちなみに死因は食道癌(食道噴門癌)と癌性腹膜炎の合併症と断定されているそうです(Wikipediaより引用)
江戸時代
春日局
春日局といえば、大奥を作った人や3代将軍・家光の乳母(めのと)として有名です。
大奥のきっかけは家光が女性に興味がなかったから
家光は女性に興味がなく、むしろ男性のほうが好きだったそうです。
そこで春日局は、男装の似合う美少女を接近させました。
その作戦は見事成功し、お振(ふり)という女性は家光の長女を出産するもすぐ亡くなってしまったそうです。
その後も将軍好みの女性をどんどんスカウトして集めていき、それが大奥の基礎となったそうです。
家光が女好きなら、大奥は出来てなかったかもしれませんね。
まあ、大奥のせいで後々、江戸幕府の財政はひっ迫するのですが・・・
※あるテレビ番組で一時期、全ての財政支出のうちの4分の1を占めるまでに、とありましたが、Wikipediaには、「大奥経費は幕府の財政支出全体の3~8%であったと見られている」とありました。
松尾芭蕉
俳句の世界で一番有名な人です。
伊賀の生まれで、奥の細道の道のり2400キロをわずか5か月という考えられない速さで踏破したことから忍者説まで出ている人物です。
松尾芭蕉、服部半蔵説って・・・
面白い話ではありますが、年代が全然ずれています。
奥の細道は1689年の紀行文です。
家康の時代の半蔵は2代目で、服部正成(西暦1542~1597年)です。
死後92年も経ってます。
武将オタクな一面も
芭蕉は武将オタクで、推しメンは源義仲だったそうです。
なんか親近感わきますね。
有名な句である
- 夏草や 兵どもが 夢の跡
は、岩手の奥州藤原氏の城跡を訪れた際の俳句ですが、源義経が自害した場所です。
そこで思いを馳せ、名句を残すとはさすが武将オタクですね。
坂本龍馬
好きな歴史上の人物ランキングでも常に上位にくる人気者です。
おねしょは13才まで
これは有名な話ですが、おねしょは13才までしてたそうです。
子供のころは、泣き虫でいじめにあって塾を退学するほど気弱だったそうです。
そんな人が大人になって、コミュ力おばけになって、時代を切り開くなんて興味深いですね。
西郷隆盛
こちらも幕末の人気者です。
維新三傑の一人ですね。
ちなみに維新三傑は
- 西郷隆盛
- 大久保利通
- 木戸孝允
の3人のことを指します。
木戸孝允は、幕末は桂小五郎という名前でした。
明治初期の話より、幕末の話の方が漫画や映像作品でも多いので桂小五郎の方がよく知られてると個人的には思います。
男気あふれる人物だった
偉い人にもはっきりとものをいう人物だったので人気があったのですが、そのせいで島流しにされ、ニート生活を送ったこともあります。
でも、その男気があったからこそ、勝海舟との話し合いで江戸無血開城を決断できたのだと思います。
医者から太りすぎで死ぬと言われていた
上野公園の犬と一緒の銅像
あれ、医者から太りすぎで死ぬからダイエット目的で犬を飼いなさいと言われて飼った犬だそうです。
当時の食文化だと、何を食べれば太るのか気になります。
白いご飯を食べ過ぎで太ったんでしょうかね?
明治時代・大正時代
伊藤博文
言わずと知れた、日本の初代内閣総理大臣です。
昔の千円札の肖像画にもなってました。
雑学好きには、女好きで有名だったとか、ふぐを食べることを解禁した人としても有名です。
ちなみにふぐ禁止令を出したのは、豊臣秀吉です。
理由は、朝鮮出兵の際に、ふぐの毒に当たって多くの兵士が死に、その際に禁止令を出しました。
松下村塾の生徒だった
16歳で入塾しています。
吉田松陰や高杉晋作とも関わっていたのはすごいですよね。
ただ、Wikipediaを読んでるとショックな内容を発見
それは、
- 「身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた」
との記述です。
たしかに百姓の家に生まれ、養子に入って下級武士の身分を得ています。
ただ、
- 西洋は貴族しか文字を学ばなかった
のに対し、日本では
- 寺子屋があったため、識字率はかなり高かった
と聞いたことがあったので、勉強の場にも身分の差が如実に出ていたのは驚きました。
しかも進歩的な塾のはずなのに。
ちなみに、西洋では識字率が低いため、文字で布教活動をするのではなく、ビジュアル(絵画)で宗教を広めようとしたために、中世ヨーロッパの宗教画はレベルが高いみたいです。
長州藩の命により、密航でイギリス留学
1863年に井上馨たちとイギリスに留学しています。
これで人生が決定した気がします。
当時の最先端であるイギリスの状況を知り、英語も話せるようになれば、将来の日本にとって重要人物になるのは確定ですよね。
実際、44歳で初代総理大臣になってます。
この留学、翌年の1864年に長州藩が米英仏蘭4国連合艦隊にケンカを売っていて、近いうちに4か国から長州藩が攻撃されることを知って、急いで帰国しています。
そして、戦争回避のため奔走するも、下関戦争は始まり長州の砲台は徹底的に破壊されます。
しかしその後も英語を使って交渉を重ねた結果、見事、停戦に成功しています。
浮気相手と結婚したくて上司を引っ張り出す男
伊藤博文の女好きは前述のとおりですが、妻がいながら芸者の梅子と結婚したくなった博文。
妻と交渉するのは怖いので、上司の桂小五郎に妻と両親を説得してもらい、離婚したそうです。
女性関係の尻ぬぐいを上司にさせるなんて、やりますね。
まあ、芸者の梅子と結婚後も、別の芸者に手を出し、明治天皇から怒られるわけですが・・・
死ぬまで女好きは治らなかったそうです。
夏目漱石
明治時代の大人気作家で、昔の千円札の肖像の人です。
今でも代表作の『吾輩は猫である』『坊つちやん』『三四郎』『それから』『こゝろ』『明暗』などは文庫本で読まれてますよね。
幼少期は大変だった
元々は牛込から高田馬場までの一帯の名主(みょうしゅ)の末っ子として生まれたが、生後すぐ四谷の古道具屋に里子に出されたそうです。
その後は夏目家の奉公人夫婦に養子に出されています。
その夫婦も女性問題が原因で離婚するなど波乱万丈な幼少期を送りました。
イギリス留学もメンタルをやられ帰国を命じられる
1900年(34才の時)、文部省より英語教育法研究のため、イギリス留学を命じられ、イギリスに渡航しています。
ですが現地で神経衰弱に陥り、帰国を命じられています。
大人気作家でも挫折はあるんですね。
こういう挫折があるから、人の心を打つ作品が書けるのかもしれませんね。
野口英世
こちらは現在の千円札の肖像の人です。
日本では差別され、アメリカに渡り才能が開花
ノーベル賞受賞者で、よくあるパターンです(差別まではされてませんが)。
野口英世もノーベル医学賞候補になっているので偶然ではないかもしれません。
気になる差別の理由ですが、伝染病研究所に入るも大学を出ていないという理由で差別され、雑用ばかりやらされていたそうです。
お金に関しては完全にくず人間
アメリカに行きたいと思った時に、お金がないため女学生との結婚による持参金300円(600万円ぐらい)を受け取り、そのお金で渡米したそうです。
ここまででも、ひどい話ですが、この話には続きがあります。
その後、一方的に婚約を解消し、アメリカ人女性と結婚したそうです。
これを結婚詐欺と言わずして、何というのだろうか・・・
ちなみにその300円、恩師が返済するはめになったそうです。
偉人だからネタになりますが、偉人でなければやばい話です。
昭和時代
太宰治
「走れメロス」や「斜陽」で有名な小説家です。
「走れメロス」は自分の実話
実話といっても、だいぶ脚色されているし、結末も違います。
熱海で豪遊してお金がなくなり、借金のかたに友達の檀一雄を旅館に置き去りにしたそうです。
しかも、置き去りにしたのに、そのままバックレたそうです。
こんな友達いたら、間違いなく縁を切られますよね。
参照:東大教授がおしえるやばい日本史(本郷和人)(ダイヤモンド社)、Wikipedia